[人形劇エトセトラ]

一般的人形劇についての豆知識
PUPPET(パペット)

人間がたくみに操作することで生きているように見せる人形のこと。 語源はサンスクリット語のPutrika, Puttalikなどで、意味は「少女」。 紀元前400年頃のギリシア語にもこれに匹敵する語としてkopnなる語があり、これも「少女」を意味する。

パペットは形式上 1手遣い 2指遣い 3糸操り(マリオネット) 4棒遣い 5影絵人形 6からくり人形 7写し絵 の七つに分けられ、 世界各国で使われている。このうち、 2指遣いは、古代エジプト、ギリシア、ローマ、インド、中国で使われていたが、 近代欧州でも盛んだった。後に述べるイギリスのパンチなどがこのタイプだ。 3糸操り(マリオネット)は東西ともに 最も古い操り方として残っている。16世紀頃ヨーロッパでは喜劇と融合され、プルチネラやカスペルなどの喜劇の主役型人形を 生んでいる。さらに18世紀頃から最盛期となり有名な劇団が生まれるようになった。


人形劇

さまざまな説があるが、少なくともインドのごく初期の影絵芝居に起源がある古代の演劇形態で、人形が俳優に代わって 演じる劇を言う。人間が人形に糸や棒などで間接的に動きを与えるので、人形劇での表現は「人形」と「操り手」に分化され、 二元性であるという特性を持つ。

観客は子供の場合が多く、登場人物は観客の同一化と拒絶を引き起こす強烈な攻撃をする。人形劇の中心となるパペットの気分に、 観客は自分の気持ちを同化させやすい。


人形劇の始まり

芸術としての人形劇は、中国では紀元前900年代に、インドでは10世紀にはすでに存在していた。日本では奈良朝に散楽と ともに中国から輸入されたくぐつまわしが起源とされている。くぐつまわしは中央アジアやトルキスタン地方から輸入された。 この地域は昔から東西文化の交流地だったこともあり、人形劇の源流をこの地方まで入り込んだ遊芸漂流の民ジプシーだとする 説もある。この説によると、くぐつまわしとジプシーが、中央アジアやトルキスタン地方を中心に人形劇を広く伝播したとしている。

しかしこの説がどうであれ、各民族間に自然発生した人形劇があることを忘れてはならない。


チェコ人形劇のいろいろ
人形の先祖

民間伝承の棒人形(rod figures)はチェコのパペットの祖先とみることができる。古代ギリシア・ローマ時代から今日まで、 彼らは民俗野外劇や娯楽の一部分である。2番目に古いタイプは中世(4・5世紀から15世紀)の指人形(hand puppet)だ。


劇の種類

人形劇師たちのレパートリーは原作に従っていくつかのグループに整理することができる。

1チェコの人形劇師が海外の人形劇師から引き継いだもの

主なものとして「Don Joan」がとても有名になった。これはよく「Don Saju」として変えて行われ、巡回人形劇師によって1787年に プラハで演じられた。そのときモーツアルトによる同じ名前のオペラが初演された。一部の研究者はそれをモーツアルトだけの 功績として誤って取った。「Dr. Faust」の劇もそれ以上の人気を得て有名になり、瞬く間に人形劇として広がっていった。

2聖書や伝説の聖人、ギリシャ神話やローマ神などについての劇

今もまだとても人気がある劇だ。Malcy Ungerは1783年に聖書的な劇の「About Proud Aman and King Arasver」を登場させた。 「Hercules」は神話の話題を扱ったものとして壮絶な人気を得た。

このレパートリーの多くは人形劇師が長い間行ってこなかった宗教的な劇より構成されている。

3ロマン主義ではなく、現実的な劇

19世紀の初めに登場。チェコの人形劇師の特色となった。正直でよい人々を描き、卓越した市民の美徳を強調する、例えば 愛国心や母性愛、友情などをテーマとしている。それらは国際的に重要な劇ではなくて、名前においても内容においてもほかの 国のものとは違い、演劇用の劇を生み出さなかった。直接的にもっぱら人形劇のために構成されていた。話題はチェコの中で 見つけることができた。チェコの人形劇でもっとも広がった劇はすべての人形劇場に広がり、チェコのすばらしい功績となった。 これらの劇は民族復興主義の作者が作成したものだろうと過去の文化歴史学者は言う。Prokop Konopasek(1785−1828) は「Mr Franc from Castle」、「Mluvana」などを書いた。ほかの作家は騎士や盗賊が登場し、非現実的な伝説ばかりを題材にして いたのだ。


チェコ人形劇の歴史
巡回人形劇師たち

人形(だけの)劇の誕生

長い間、チェコでもっとも広範囲にわたって使われているのが紐で吊った人形(string puppet)だ。上から操る人形である。 この人形はイギリスやオランダ、とりわけドイツの巡回人形劇師によってチェコにもたらされた。最初は16世紀後半、17世紀後半に はより多くのものが伝わった。初め、巡回人形劇師たちはもっぱらパペットだけを使ったのではなく生きた俳優も使用した。 パペットパフォーマンスは彼らの上演作品の付録にすぎなかった。パペットは技術的な要求が少なく、利益も少なかったからだ。 そのため、最も古いパペットの上演作品は、いくらか調整がなされ単純化されているとはいえ生きた俳優のものと同じだ。 バロック、幻想主義の時代におけるパペットシアターの舞台はバロックの“のぞき眼鏡・いかがわしい見せ物(peep-show)” 舞台に由来した。その基本は塗装された背景、両脇に舞台袖、そして裏舞台を隠している上部から吊った幕で構成されていた。

紐で吊った人形(string puppet)の芸術的な像もまたおそらくフォークバロック式の木彫りに一致し、教会の祭壇を装飾する 彫刻人によって作られていた。この全てもまた長い間チェコの巡回人形劇の形に影響を与え、18世紀を通して人形劇場が独立し、 人形だけの劇が誕生した。その頃からチェコ語で演じられる人形劇が頻発する。また人形劇が劇場生活と直接の関係がなくなり、 はっきりと民俗の娯楽になったのもこの頃だ。チェコの人形師は綱渡り芸人(軽業師)やクマの調教師、他の縁日の呼び物などと 一緒に社会の淵に追いやられ、田舎でしか演じなくなった。結局彼らはしばしば人形劇だけではなく、綱渡りや回転木馬などの 呼び物も行なって生計を立てていた。権力者から上演の許しを得るのは簡単なことではなかったのだ。おそらくこれら全ての 理由から人形師の世襲化が起こった。彼らが上流階級社会と通じることは全くなく、人形師の子どもたちは内輪同士で結婚した。 商売方法やパペット、レパートリーは口承で世代から世代へと伝え受け継がれた。1950年代に至るまでの巡回人形劇は基本的に この形である。


劇の上演方法

巡回人形劇師は土地を移動するとき、ほとんど2輪荷馬車といくつかのほろ馬車を使った。そして、宿屋(または酒場)や 市場(2つの樽の上においた厚板や机、足場とそのようなもので舞台を作った)、ほろ馬車の両側に舞台を組み立てた。 ほろ馬車の場合はその両側をおろして演じるための空間を作った。

パペットはセットになっていた。貧しいものは2,3の基本的なタイプだけ持っていて、お金が貯まるにつれて増やしていった。 欠かせない人形は、悪魔・Pimprle(のちのKasparek)・農家のSkrhola・若い騎士・老いた騎士・若い女性・田舎の少女・盗賊など だ。紐で吊った人形(マリオネット)は木製で、棒と横木で操られている。堅い頭はワイヤーで支えられており手と足は紐で 結ばれている。背丈は古いもので60cmくらいだが、新しくなるにつれて80cmを越え1mまでいくものもある。カシュパーレクの ようなコミックタイプには動きやすい下あごがある。このパペットはワイヤーがないが、動きをより活発にするために紐で完全に 吊り下げられている。パペット、少なくとも彼らの頭はほとんどプロによって彫られている。例えばMiroticeの Mikulas SichrovskyやプラハのJosef Allesiなど。同じように舞台背景や幕もBosek家族やVysekalのように推薦された芸術家に よって作られている。


上演品目

主に、他国の巡回一座から引き受けた国際的なもの、例えばファウストやドンファン、Jenovefaを上演した。しかしたびたび曲解 された。のちに、チェコシアター製作の作品、StepanekやKlicpera、Machacek、Tylなどを演じるようになった。1820年代に、直接、 人形劇用の作品が初めて書かれ、上演され始めた。それらはProkop Konopasek(1785〜1828)教授とFranz氏によって書かれたようだ。


国民復興時代の活躍

巡回人形師たちの活動は、確かにチェコ人形(操作術)の中で強い傾向のひとつであった。国民復興の時代の彼らの偉大な重要性や 彼らがチェコ人たちの国民性を呼び覚ましたという事実については話がつきない。なぜなら、彼らは田舎でチェコ語による劇を唯一 演じた人たちだと言ってもおかしくないからだ。しかし、彼らが貢献した最も重要なことは、田舎の人々にチェコシアターや他の 国々のレパートリーに接する機会を与えたことだ。そうしなければ接触することなど絶対なかったであろう。

このことは後に詳しく述べる。


巡回人形劇の衰退

しかし1830年代、巡回人形劇の危機がゆっくりと姿を現わし始めた。巡回人形劇が停滞し、しだいに時代錯誤になり教育の遅れた 村でさえも古風になったことが主な原因だ。大人が劇に来なくなるにつれて、子どもたちだけが増えていった。この変換は19世紀 後半に完成した。そしていくつかの試みにもかかわらず、チェコの巡回人形劇に大人たちを呼び戻すことはできなかった。その頃 からの要素の欠如は、巡回人形師の本当の重要性を曲げて伝えることと同じように、今日人々の心に強く残っている印象や評価、 言い伝え、理想化に多くの違いを作った。しかし、それがまさに19世紀後半のパペットシアターに人々がしだいに興味を抱き アマチュアによる演技も量的に発展したことの要因になることは確かだ。


社会、学校及び家庭内での人形劇

19世紀半ばからいくつかの大人社会が人形劇場を熱心に助長した。当然、エンターテイメントの1つとしてだ。演技の中で彼らは巡回人形師の マンネリズムのパロディーをつくった。1862年に出版された“the Comedies and Plays of M.Kopecky as Recorded by his son Vaclav”もまた パロディーの性格をもっている。これはのちにマチェイ・コペツキーについての言い伝えの影響下でだけ、愛国的な行為と呼ばれた。 伝統的な人形劇ファウストにとってのBedrich Smetanaのユーモラスな序曲もまた同じ傾向を考えに入れて構成された。それらは のちにファミリーシアターで続きものの作品を演じるという妙案につながっていった。

人形劇場では、エンターテイメントを供給する目的でたびたび子どもたちのために劇が演じられた。このシアターは巡回人形師の 劇から多くを受け継いだ。もちろん例外もあるが。それらは主に童話から着想したものだった。そして人形劇場の1番大きな後援者は 教師だった。彼らは人形が子どもに与える影響と教育目的で人形を使うことの可能性に敏感だったのだ。Frantisek Hauserは1950年代と 60年代に指導方法のなかで人形劇場を使おうとした。そこでLudmila Tesarovaは80年代から保育園の中で人形を使うことをサポートした。

同時期に、伝統的なパペットの危機に伴ってホームパペットシアターが発展し始めた。最初は裕福な階級のサロンで、のちに 中級商人の家庭、教養のある家庭。そして、徐々に広がっていった。

Socialパペットシアターは1970年代に生まれ、Sokol physical文化運動に支えられた。独創的技術的観点から、ほとんどの socialシアターは巡回人形師の慣習とつながっており、同じ作業場から道具を仕入れていた。しかし、そうでなければ主に 演技の中で彼らが話す言語をより有効(優秀)な言語レベルにしようとしただろう。19世紀と20世紀の変わり目はパペットシアターの ルネッサンスと呼ばれた。それは伝統的なものに執着することに加えて、例えば巡回パペットのように第二の流れが パペットシアターを改編しようとしていたからだった。


1945年以降の人形劇 戦争の後、Josef Skupaによってプラハで建設されたS+H劇場は、当時唯一のプロの人形劇上だった。Dr.Jan Malikと人形劇師たちが プロのためのシアターを増築し始めたのもこの頃だ。これらは1948年演劇法をパスするのに重大な助力となった。

ハイスタンダードなアマチュアグループはLiberee,Brno、Ceske Budejovice、やKladnoでプロになった。

舞台の背景から役者が登場し人形を操るだけでなく歌い踊るという総合的な形になったシアターの傾向により、パペット産業 だけでなく役者の演技能力も徐々に発展していった。パペットの練習方法も、それに応じて移行していった。大学の人形劇学科も チェコの人形アートすべてを包括するところとして同じように発展していった。1990年からは、役者の多才性と多くの指導者の もとで舞台について研究することに重きをおくために、学科はthe Department of Alternative and Puppet Theatreに 移行した。


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