3 日系ブラジル移民の歴史


日系人が日本を離れて100 年。日本とブラジル、日本人と日系人は異なる歴史を歩ん できました。この章では、彼らが日本を離れてから今まで、どのように歩んできたのかを 紹介したいと思います。

① 移民のはじまり
明治初期、国内の不景気を憂慮した日本政府は外貨獲得を期 待し、ハワイに移民を送り込みました。出稼ぎ感覚で移民した 人々は契約期間を終え、多くの外貨を日本に持ち帰って来まし た。これが日本の移民史の始まりです。その後、日本はアメリ カ本土、カナダ、オーストラリアなどに移民を送り出してきた が、いずれの地でも東洋人排斥運動が活発化し門戸が閉ざされ てしまいました。
この頃ブラジルでは、1888 年の奴隷制の廃止や、97 年から のコーヒーの国際市場の大暴落に伴うヨーロッパ系移民の激 減により労働力不足が深刻化していました。移民を送り出した い日本となんとしても労働力の欲しいブラジル。双方の思惑が合致して日本人のブラジル への移民が始まりました。


② 初期移民
ブラジル
ブラジルへの移民は1908 年、781 名の笠戸丸移民から始まります。彼らは神戸港から 出国し、約40 日間の船旅を経て6 月18 日に当時のブラジル最大の港、サントス港に到 着しました。 彼らを含めた初期の移民は、定住を目的とせず、2~3 年ブラジルで働いてお金を稼ぎ、 日本に帰って「故郷に錦を飾る」ことを目標とした出稼ぎ感覚の者が大部分でした。しか し、その中で実際に日本に帰国できた人数はほんの少数でした。ブラジルでの労働は予想 以上に厳しく、得られる収入は思い描いていた半分以下だったのです。移民たちはブラジ ルに着くとまず農場に配耕され、そこで契約農民としてコーヒーの収穫などに従事しまし た。それは20 年ほど前まで奴隷が行っていた作業で、農場主は移民を経済的な面で農場 に縛り付け、奴隷と変わらない扱いをする者もいました。当然、移民たちの不安は爆発し、 各地で暴動や命をかけての夜逃げが横行、初めに配耕された農場に契約終了まで残った移 民は半数以下でした。農場を逃げ出した移民たちは条件の良い農場に移ったり、都市に出 て職を探したり、鉄道工夫となって奥地へ向かったりと、ブラジル全土へと広がっていき ました。


③.植民地の形成
ブラジル
大変な苦労をした初期移民たちにも3年ほどすると土 地を持つ者が現れ始めました。各地に日本の村のような制 度を持った日系移民たちの植民地が出来、集会所やいずれ 日本へ帰る日に子弟たちが困らないよう日本の教育を行 う学校などが設けられました。入植者たちは自分たちの手 で原生林を切り開いて農地にし、米や綿、コーヒーなどの 商品作物を育てたり、養蚕を行って日本へ帰る資金を稼ぐ ために奔走しました。しかし、日本と気候の違う地での農 業はなかなかうまくいかず、天候不順やイナゴ、ハキリ蟻 などの虫害に悩まされました。また、水辺の傍に住居を建 てる日系植民地ではマラリアが流行し、高価な薬が買えずに亡くなる人も大勢いました。 特に平野植民地では入植者の半数が亡くなるという大変な被害がでました。 植民地の経営が次第に安定化してくると、農地を持った移民たちは新たに移民してき た人たちを4年間や6年間といった契約で雇入れ、開墾や農作業に従事させながら、現 地での生活に慣れる面倒を見、送り出していきました。

④.日本との関係
第二次世界大戦が始まるとブラジルは連合国側につき、日本との国交は断絶してしま いました。移民たちは子弟たちに日本語教育を受けさせることも外で日本語を話すこと も禁止され、警察に監視される生活を余儀なくされました。また、ヨーロッパ系の農場 主を持つ農場の中には、敵国になった日本人は受け入れられないと、銃で脅して移民た ちをむりやり追い出すところもありました。

⑤.勝ち組、負け組ブラジル
1945 年8 月15 日の「日本敗戦」。この情報が 地球の反対側であるブラジルの日系一世達にき ちんと伝えられるまで、日系人達の間では、日 本は戦争に勝ったという「信念派」の「勝ち組」 と負けたという「認識派」の「負け組」に分か れ、対立し、互いに溝を深めていきました。敗 戦の情報がもたらされた後も、その情報には多 くの虚報も混ざっており、日系人達は「アメリ カの思想戦が始まった。敗戦の情報はその一報 である」と考え、「日本人としての信念を貫かねばならない。」と「勝ち組」側の姿勢をと る者が多く、その数は移民全体の9 割近くをしめていました。その後、ブラジル各地に存 在した日系人集団地に組織された「神風隊」・「国粋青年団」・「忠君愛国同志会」などの「勝 ち組」組織の元締め的組織「臣道連盟」が1945 年7 月22 日に結成され、「負け組」の有 力者に対する焼き討ちや暗殺などのテロ行為を行い、多数の犠牲者を出しました。これを 重く見たブラジル政府は「勝ち組」に対し説得を何度も試みるも上手く成果をあげられず、 ついに「勝ち組」幹部の大量検挙に踏み切りました。

⑥.移民再開
大戦中より廃止されていた移民が復活したのは1953 年のことで、同年2 月11 日、リ オデジャネイロ港に「さんとす丸」が戦後初となる移民を乗せ到着しました。これらの戦 後移民は戦前移民と違い永住決意を持ってブラジルに渡った人が多くおり、戦前移民の人 達からすると、日本の戦後の状況や文化など多くの情報をもたらし、ブラジルの日系人社 会に新しい風をもたらす待望の人達でした。その後の移民は、1954 年1 月に外務省が設 立した財団法人「日本海外協会連合会」が中心となり行われました。戦後の混乱に伴い、 食料不足と失業問題などが深刻な問題となっており、海外に移民を送り出す必要に迫られ ていた外務省は、移民政策を推し進めていきました。しかしその政策は、移民の送り出し にのみ力が入れられており、入植後の支援や移住地の選択などは非常に杜撰なものでした。 そのため、初めに移住した場所が不毛の土地であるため再びよその土地へ移住しなければ ならないケースも多かったようです。

⑦. 最後の移民船
「船」による移民は「航空機」の発達に伴い徐々にその数を減らし、終に1973 年2 月 14 日、ブラジルのサントス港へ向けて「にほん丸」が「最後の移民船」として出港しま した。船内では、ダンスパーティーや映画会、囲碁・将棋大会などの娯楽行事が多く催さ れ、日本留学から帰る日系二世たちによるポルトガル語教室なども開かれていました。こ れ以後、移住は「船」によるものから「航空機」のよるものへと変わっていきました。

⑧. ココア産業組合
移民に関する対策はブラジル側でもとられ、日系人が独身青年を導入する許可を得て 「コチア産業組合中央会」を組織し、移民の呼び寄せを行いました。コチア産業組合はサ ンパウロ・パナマ両州を中心にブラジル南部の農業を支えその発展に大きく貢献しました。 さらに「コチア青年」と呼ばれる「戦後すでにブラジルに先住していた日系農家が身元引 受人となり、ブラジルに渡り4 年間パトロンの元でいろいろと教わりながら働いた後、自 立する」という制度が整えられ、コチア産業組合が窓口となり2000 人ほどの青年がブラ ジルへ渡りました。
しかし、1970 年代のセラード開発(コラム参照)がはじまると、多額の費用がかかるよ うになり、資金繰りが悪化し、終には倒産してしまいました。

ブラジル
inserted by FC2 system